【今回、出会った本】
『仮面の解釈学』坂部恵著『坂部恵集3』(岩波書店)2007年1月所収
私は音楽が好きです。ジャンルを問われなければ、ほぼ毎日といっていいくらい何らかの音楽作品を聴いています。
あるとき、大好きなムードミュージックの曲を聴いていた時のことです。突然に、なんともいい知れぬ感覚に襲われました。曲のなかに流れているピアノとトランペットの演奏が、たしかに言葉のようなものをしゃべっているように思えたのです。
うまく言いあらわすことがむずかしいのですが、ピアノとトランペットがおりなす旋律とリズムの絶妙な組み合わせの効果が、ほんとうにまるで自分のしらない国の言葉で自分のしらない国のひとが魅惑的に語りかけてくる、そんな感覚だといったらより近いのかもしれません。
そして、同時に感じていたのは、どんなに神経を集中させてその言葉を聴き取ろうとしても、それが何と言っているのかどうしても意味として理解するにいたらないという、なんとも歯がゆいもどかしさだったのです。
ところが、私が今回であったこの本には、私のこうした経験をまったく別の言いかたで説明してくれているとしか思えない記述があったのです。それは、次のような個所でした。
(ここから引用)
‘ここで、まったく仮にの話ですが、テニヲハだけで書かれた詩というものを想像してみていただきたい。誰がどこで何をした、などという場合の「…が…で…を…」というテニヲハだけで書かれた詩。もちろんそんなものはどこにもありません(歴史的に捜すと、そういったものを考えようとした人はいないわけではないのですが)。しかし私は比喩的な意味で、音楽とはまさにテニヲハだけで書かれた詩に相当するように思います。音楽、とりわけそのリズムはわれわれの心の秘められたテニヲハにあたるものだと思うのです。音楽のリズムはわれわれの心の基本的な律動、あるいは哀しみとか歓びといったような基本的方向を整えるものと考えられるわけです。’
(「3テニヲハと仮面劇――思いを方向づける」より)(引用ここまで)
著者の坂部恵は哲学者でありますが、いま引用した箇所についていえば、論理的思考よりもむしろ直感的思考のほうが勝った、そんな内容の文章になっています。彼はここでいったい何を言おうとしているのでしょうか?
それを把握するためには、この文章中でカギとなる「テニヲハ」というものへの理解が欠かせないものになります。
私たちの日本語は、名詞や動詞という文の中心的な役割をはたすそれぞれの品詞を、助詞というものが繋いでいくことによって、ひとつの意味の通る文にまでつくりあげていく言語だということです。
たとえば「私」と「男」という単語(名詞)を、「は」がつないで、最後に断定の助動詞「だ」をつければ、「私は男だ」という意味のとおった文章になりますね。この場合の「は」が助詞にあたるわけですが、こうした助詞のことを総称して「テニヲハ」と呼んでいます。
すこし遊んでみますと、たとえばこれが「私が男だ」とした場合はどうでしょうか?意味としては「私は男だ」と近いことは近いですが、伝わり方のニュアンスは微妙に違いますよね?また、「私を男だ」とか「私に男だ」と書いてしまったら、これはまったく意味のとおらない文章になって、ふつうこれらの文は「テニヲハ」がおかしいという評価になってしまいます。
以上のことを踏まえたうえで、ふたたび坂部の文章に戻ることにします。彼はつぎのように続けています。
(ここから引用)
‘さて、テニヲハだけで書かれた詩というものが仮にあるとして、それがいくつかの言葉を呼び寄せてもう少し具体化された、言ってみれば主語がなくて述語だけで書かれた詩というものを考えていただきたい。たとえば「…が…と闘った、ついに…が…に勝った」、このような詩を考えていただきたい。これだけですでに物語性、ドラマの最小限(ミニマム)がそこにあらわれてくることがおわかりになるでしょう。対象とか主語と言われるものがここには明示されなくても、われわれの心と宇宙との深く秘められた根底にある思いの一定の方向性・方向づけがここに整えられることになります。’
(同前)
(引用ここまで)
ここで議論がいっきに高度化しているのが分かりますね。坂部のいう「テニヲハだけで書かれた詩」というもののイメージが、この部分を読むとより具体的に把握できるのではないでしょうか?
「…が…と闘った、ついに…が…に勝った」というこの例文には、たしかに「が」や「と」や「に」といった助詞が含まれていますが、それだけではなく「闘った」とか「勝った」という動詞も含まれています。だから、厳密にいえば「テニヲハだけで書かれた」ものとは言えませんが、それの意味するところは「主語がなくて述語だけで書かれた」ものだというところに、実はほんとうの力点がおかれているのだということが分かります。「テニヲハだけで書かれた」文章というのは、あくまでも比喩的な表現なのですね。
ところで、これはそもそも言葉ではなくて音楽のお話しだったことを思いだしてください。なぜ「主語がなくて述語だけで書かれた」ものが音楽なのでしょうか?引用文のなかで、坂部はその問いにめいかくに答えています。それは「対象とか主語と言われるものがここには明示されなくても、われわれの心と宇宙との深く秘められた根底にある思いの一定の方向性・方向づけがここに整えられる」からだ、という部分です。
音楽の素晴らしいところは、いっさいの言葉ぬきで、人がいだく感情世界のぜんたいを音の秩序として現前させ、聴く者をしてその幽明の境地にいっきに連れさってしまう超越的なその運動性にこそあります。そこでは、もっとも雄弁に語るものが概念的な「意味」ではなく、ある方向にむけて秩序だてられた、言葉にならない「思い」の流れそのものだということになるでしょう。
そのように考えると、冒頭で私がのべたあの歯がゆさの理由も、じつによく納得されます。音楽が言葉にならない「思い」の流れそのものであってみれば、いくら私が神経を集中させてみても、そこになんらかの「意味」を読み込めるはずなど、じつは最初からなかったわけです。音楽を聴くということの、それが本来の「意味」なのだということを、坂部恵のこの本は、私にじつに明解に教えてくれたのでした。(了)
(添田馨)