【連載】「日々是発見!」(7)《地球温暖化は嘘っぱち!?》

【今回、出会った本】
『検証温暖化 20世紀の温暖化の実像を探る』近藤邦明(不知火書房)2019年7月刊

 SDGs(持続可能な開発目標)はいまや世界の潮流となってきています。わが国でも官民を問わず、ガイドラインに沿ったさまざまな取り組みが本格化しはじめています。
 地球温暖化の問題は、SDGsの17あるゴールのうちの13番目「気候変動に具体的な対策を」とも密接に関係するテーマであり、2015年のCOP21のパリ協定の大前提にもなっているおなじみのものです。

 ところが、この地球温暖化という現象そのものに真っ向から疑問をぶつける考え方というものがあることを、ご存じの方もいらっしゃるのではないでしょうか?
 今回出会った本は、まさに「地球温暖化」そのものを否定する非常に刺激的な内容の議論に満ち溢れている、そういった種類のものです。

 同書には地球温暖化を否定するための科学的証明の一環として、じつにさまざまな数値データやグラフ、さらにはシミュレーションのための複雑高度な計算式などが多用されており、文系の私にはかなり荷が重いというか、ほとんどそれら数式の意味を把握できるところまではいけなかったというのが正直なところです。
 では、何故そのような本を今回取り上げることにしたのかといえば、逆説的に思われるかもしれませんが、地球温暖化の問題を私が重視するからこそ、それに対して完全にアンチをとなえるこうした論陣の存在は、とても貴重だと思われたからでした。

 従いまして、ピンポイントの議論になってしまいますが、同書のなかでとりわけ私が関心をもった箇所に焦点をしぼって、地球温暖化の問題だけに限定せずそこから何か「これは有用だ」と思える視点のようなものが拾いあげられないか、その試行錯誤を行ってみたいと考えます。

【論点その1】
「20世紀の気温上昇は異常な現象ではない」という主張について
(以下引用)
 20世紀に気温の上昇傾向が観測されてことは事実です。この気温の上昇を一般的な用語として「温暖化」と呼ぶことは誤りではありません。ところが今日の日本社会では「20世紀の温暖化」と言えば「産業革命以降に化石燃料の消費によって放出されたCО2をはじめとする温室効果ガスの影響によるもの」ということになっています。
 しかし、この「人為的CО2地球温暖化説」が自然科学的に見て多くの誤りや矛盾を含んでいることはこれまで述べてきた通りです。したがって、現実に観測されている「20世紀の温暖化」を、人為的CО2地球温暖化説に基づく「温暖化」というフィクションと同一視してはならないのです。(246頁)
(引用終り)

 なるほど、この論点は、著者のいう通り20世紀の気温の上昇傾向が「人為的CО2」を原因とするものではないとしたら、正しいと思います。つまり、あるひとつの客観的なデータとして百年間にわたる気温の上昇傾向が認められた。これは科学的に信頼のおける事実です。ただ、その事実からさかのぼって、その原因をすべて「人為的CО2」のせいにするのは間違いだというわけですね。
 ただ、どうなのでしょう。これは素人考えですが、気温の上昇傾向の原因のなかには、著者がいうところの自然変動によるものの他に、やはり「人為的CО2」を原因とする部分も何パーセントかは含まれているのではないでしょうか?むしろそう考えるのが自然です。従って、そうした方向に、今後の研究のテーマが向かっていくようになる契機として、こうした主張が役立つことを私は願いたいと思います。

【論点その2】
「大衆の思考停止によって広がるエコ・ファシズム」という主張について
(以下引用)
(…)「人為的CО2地球温暖化の脅威」という虚像がここまで拡大・定着した最大の理由は、マスメディアやインターネットを通して流布される質の低い情報の氾濫と、その中で生活する大衆が自ら論理的に思考することを停止してしまったことにあります。社会の成員である大衆が自ら考えることを放棄した現在の日本は、容易にファシズムに繋がるとても危険な状況です。
 現在の日本社会は、すでに「エコ・ファシズム」あるいは「温暖化ファシズム」とでも呼ぶべき政治・経済・文化状況に陥っています。「人為的CО2地球温暖化の脅威」に対する批判的な主張は、政・官・財の権力と結託した学界やメディアによって排除され、大衆の目には見えないように覆い隠されているのが現状です。(248頁)
(引用終り)

 だいぶ過激な表現が目立ってきていますね。なかでも特に目をひく「エコ・ファシズム」や「温暖化ファシズム」といった言葉ですが、著者はこうした強い表現によってなにかを根底的に批判しているのですね。それはいったい何でしょうか?

 つきつめれば、著者が怒っているのは「大衆が自ら考えることを放棄した」ことに対してであることが分かります。またしてもここで素人考えの登場なのですが、著者がいうところの「人為的CО2地球温暖化説」は、専門家であってもその評価が分かれてしまうような非常に高度で難しい未解決問題であるにもかかわらず、それをあたかも解決済みのことのように一方的に拡散させてきた者たちの責任が問われるべきことは、当然あってしかるべきでしょう。しかし、その共犯者として、大衆が「思考を停止」したことに責任の所在をおしつけ、大衆を悪者扱いするのは私には筋違いのような気がします。

 冒頭でも述べましたが、本書で、地球温暖化を否定するための科学的証明の一環として、著者が示したじつにさまざまな数値データやグラフ、さらにはシミュレーションのための複雑高度な計算式などは、残念なことに私には理解できませんでした。そんな私の知識水準が大衆並みであることは確実なので、これは大衆がいくら「論理的に思考」したとしても、彼らの頭が「人為的CО2地球温暖化説」を明確に否定しうるまでの認識にいたるのは無理というものでしょう。

 ですが、そうは言っても、ここで著者が提起している問題にはきわめて重要な論点がふくまれていることも確かです。それは何かというと、「人為的CО2地球温暖化説」のような高度に専門的なテーマについては、このいまの世界では最も信頼できそうな専門家や専門機関などにいったん判断を預けてしまわないと、ものごとがまったく前に進まなくなってしまうという問題です。

 エコが「ファシズム」に転化するとしたら、恐らくそうした背景状況のもとにおいてではないでしょうか。例えばスーパーやコンビニのレジ袋の有料化などは、たぶん誰ひとりとして納得していないにもかかわらず、みんなそれに従っていますね。これなどは、われわれみんなが強制され従わされている「エコ・ファシズム」の典型例だと思います。その場合でも、批判されるべきはそれを強要する為政者や権力者なのであって、決して大衆ではないのだと思うのです。

【論点その3】
「危機を煽ってエコが売られる」という主張
(以下引用)
 こうして、既存の工業製品をエコ商品で置き換えることによって、短期的には企業の売上が増大し、経済規模が拡大し、経済成長することになります。
 先進工業国にとって有利な「温暖化対策」は、世界市場において後発工業国によって奪われたシェアを奪還し、再び経済成長を約束してくれます。先進工業国が国連を利用して「地球環境の危機」を煽りながら、「人為的CО2地球温暖化」説を世界標準として認知させることに執着しているのはこのような理由からなのです。(262頁)
(引用終り)

 ちょっと不思議な感じがしませんか?ここで著者が言っていることは、世界的に「温暖化対策」が進めば、世界的に「経済成長する」ということですね。この部分だけとらまえれば何も悪いことはない、むしろいいことずくめのようにも聞こえます。「温暖化対策」が「経済成長」を促すことに批判さるべき論点がもしありうるとすれば、先進国が経済成長するかげで発展途上国の側が一方的に経済発展を阻害される(搾取される)といった国際関係分野での現実や、経済成長の結果として世界的に富裕層と貧困層との分断が決定的となってしまうという社会構造面での現実や、経済成長を優先させるあまり自然資源を過剰に浪費することで資源の枯渇化をまねいてしまうといった自然破壊的側面での現実などが、もう一方の極においてつよく想定される場合です。
 少なくとも「人為的CО2地球温暖化」説が世の中にばらまく害悪を科学的かつ客観的に証明するのと同等かそれ以上の熱量をもって、いま私が述べたこれらの問題の検証が徹底して行われ、個々のそれぞれの問題において原因と結果とが、誰しもが相互に認証しあえるようなかたちで析出できなければ、一概に「温暖化対策」による「経済成長」を悪だと決めつけることは、私には危険な気がするのです。
 というのも、「経済成長」という概念じたいが、現在では破綻しかけていると私には見えますし、それでも経済を回していかなくてはならぬのが地球に生きる私たち全人類の共通の課題でもある以上、その結果として必然的に生じてしまう害悪への批判において、原因と結果をイデオロギー的に取り違えてしまう過ちは往々にしてエモーショナルになされてしまうという悪しき前例が、私たちの歴史においてはよく見られるからです。
 一例をあげれば、いま世界を覆っているCOVID-19パンデミックにおけるワクチン接種の問題が、その典型のように私には映るからです。「危機を煽ってエコを売る」ことが害悪であるとすれば、「危機を煽ってワクチンを打たせる」ことは果たしてどうなのでしょうか?問題が巨大すぎて、とてもこの場で展開しきることはできませんが、危機における情報受信用のまっさらなアンテナだけは健全に保ち続けたいと、そう願うばかりです。(了)

(添田馨)