【今回、出会った本】
『生物はなぜ死ぬのか』小林武彦(講談社現代新書)
人は誰でも「長生きしたい」という願望をどこかにもっているのではないでしょうか。無論、いくら願ったところで、叶わない場合もたくさんあります。不治の病や不慮の事故などのせいで、必ずしも天寿をまっとうできる人ばかりではありません。だから、なおのこと長生き願望にはそれなりの理由があるし、そう願うのは自然のことだと、これまでなんの疑いも抱いてきませんでした。そして、その裏側には、死ぬことを恐いとおもう人間感情が根強く存在します。
しかしながら、生物学的な見地からすれば、「生き物が死ぬこと」も、進化の過程がつくりあげた自然界の必然ということになり、決して〝恐ろしい〟だけの対象ではないということになるのです。
今回であった本『生物はなぜ死ぬのか』の冒頭で、著者である小林武彦先生は、このように述べています。
‘(…)この地球に生命が誕生したのも、現在たくさんの生き物が存在することも、そして死ぬことも、全てなるほどと思える「そもそも」の理由があるのです。当然、私たち人間が死ぬことにも、理由があるのです。’
(「はじめに」より)
そして、「生き物にとっての「死」は、子供を産むことと同じくらい自然な、しかも必然的なものなのです」(163頁)と結論づけます。
それに続けて、このように書いておられます。
‘事実、自身の命と引き換えに子孫を残す生き物、例えばサケは産卵とともに死に、死骸は他の生き物の餌となり、巡り巡って稚魚の餌となります。もっと直接的な例ではクモの一種であるムレイワガネグモの母グモは、生きているときに自らの内臓を吐き出し、生まれたばかりの子に与え、それがなくなると自らの体そのものを餌として与えます。まさに、「死」と引き換えに「生」が存在しているのです。’
(第五章 そもそも生物はなぜ死ぬのか)
たしかに、このように理詰めで言われてしまうと、子供の繁栄のために親は死んで当然なのだし、また死ななければならないものだと観念せざるをえない、妙な気持ちになってしまいます。ですが、頭でそうだと理解はしても、やはり死ぬことは恐いし、親には長生きして欲しいし、そういう自分もできれば長生きしたいと願う気持ちは、そう簡単には打ち消すことができませんね。
そうなんです。こうした気持ちは、人間が感情の生き物である以上、どうしても拭い去ることのできない部分でもあるわけですが、この本の面白いところは、私たちのこうした人情までをも、ちゃんと進化生物学的に説明してくれる点なのです。小林先生もそういうことはしっかりと心得ておられて、つぎのように述べています。
‘死ぬこと自体はプログラムされていて逆らえませんが、年長者が少しでも元気に長生きして、次世代、次々世代の多様性の実現を見届け、そのための社会基盤を作る雑用を多少なりとも引き受けることは、社会全体にとってプラスとなります。ですので、長生き願望は決して利己的ではなく、当然の感情です。またヒトの場合、長生き願望は死に対する恐怖という側面もありますが、その恐怖の根源には、しっかりと次世代を育てなければならない、という生物学的な理由があります。最低でも、子供がある程度大きくなるまでは頑張って生きないといけないのです。’
(同前)
私などは、こういう箇所を読むと、なぜかホッとします。私は生物学にかんしてはまったくの門外漢ですが、今回、このご本を読ませていただいて、人間もふくめた生物界のいまの多様で生きいきとした姿は、理由もなく生じたわけではなくて、すべて進化のプロセスにおける必然性の賜物なのだという考え方が、ようやく少し分かりかけてきた気がします。
であるならば、私たちの死を恐れる感情じたいも、やはり必然的な生命進化のもたらしたごく自然な姿なのではないかと、本書を読みすすめながら心のどこかで思い始めていたところでした。この本は、そんな私の気持ちを察してか、このように最適な落としどころを準備してくれたようです。(了)
(添田馨)